もはやこれまで

隠遁を願うアラフィフ会社員。中学校の卒業文集で将来の夢は”何もしないひと”と書いた。あれから35年、夢も画力も変わっていない。

西田哲学は秘伝の鰻タレなのか


 実家とーちゃんから昔に揃えた西田幾多郎書籍を古紙回収でなく有効かつ有益な方法で処分したいとの申し出があり、オークション出品することにした。

 

 書籍の資料的、資産的価値の高低はさて置き、現在の資本主義経済においては需要の多さと人気のみでバリューが決まるシステムであるために、値が付くのか引き取り手があるかはわからない。調べた感じではさほど希少性もなさそうなので値が付いてもコーヒー代程度であろうが、値段よりも知の結集が他の誰かに継がれて活用されるというのが望ましい、ということらしい。

 

 さて、西田哲学は難解なことで知られるがこの機会に少し調べてみた。西田哲学の概念を示すワードに絶対矛盾的自己同一という用語がある。後期西田哲学の根本思想であるという。意味不明であるが、解説をいくつか見る限りの浅い理解では、相反する矛盾した対立物がそのまま同一なものとして存在し得るということだろうか。これでも何言ってるのかわからんが。

 

 Youtubeで『生物と無生物のあいだ』の著者・福岡伸一先生が、西田哲学に関するコメントを述べていた。福岡先生は生命における維持バランサーとしてミクロ領域における動的平衡という考え方を導入し、分子生物学者の立場から生物の根源解明を探求されている。

 

 この考え方が絶対矛盾的自己同一と類似していると西田哲学の継承者である池田善昭先生より指摘をされたことがきっかけであるらしい。著書は一般書としてベストセラーにもなったので読んだ人も多いと思う。ワシも昔に読んで新鮮な感覚を得た。

 

 生物は常に細胞レベルで日々新しく置き換わり、数年で古いものを代替していく。数年前に自身を形成していた細胞は現在すでに無く、まったく新しい細胞に入れ変わっている。けれども不思議なことにその人自体は、個体としては別人ではなく同一人物で不変と見なされるのだ。

 

 『動的平衡』のように古いものを捨て新しいものを導入しつつ均衡をとることで個を維持するのと似たような着想や思想は実は古今東西にある。妻から指摘され成る程と思った『テセウスの船』という考え方もそうだろうし、鴨長明方丈記』冒頭部、ゆく川の流れは絶えずして、、の精神にも通じるところがあるのだろう。皇統の万世一系システムにも重なりが見られる。肉体という器を入れ替えつつ体制そのものを維持するのである。

 

 時代や地域、専門性を異にする人たちが、生や命、人間といった対象物を標的に多角的に俯瞰、深堀して到達する一つの姿が表現形式の相違はあれど多くの類似部や共通項を内包している。その点に於いて人間脳の思考限界を突き付けられるようで興味深く感じる。その思考している脳こそが日々新しく細胞が置き換わっている物体ではないのか、という自己矛盾。

 

 この雑記を書きながら、江戸時代から続く鰻屋のタレも同じではないかしらと思ってしまった。秘伝のタレは蒲焼に付けて減った分を新たに継ぎ足し補充しながら、『鰻のタレ』という形態を維持していく。江戸時代から代々引き継がれたと言っても、現在のものは新たに足されたものが大部分で当時のタレ成分はほぼ残存していないであろう。

 

 とすれば絶対矛盾的自己同一の根底思想は日常我々が食している鰻のタレと変わらないのかもしれない。一見入り組んだように見える宇宙の哲学や摂理というのは、案外自然則という秩序のうえに成立し単純化し得るものではないか。やはり神はサイコロを振らないのかも。