もはやこれまで

隠遁を願うアラフィフ会社員。中学校の卒業文集で将来の夢は”何もしないひと”と書いた。あれから35年、夢も画力も変わっていない。

共通テストをやってみた

 数ⅠAがめっちゃムズイという事で世間が騒いでる。平均点が38点とかなんとか。みんな平等にムズイならそれでもいいやんと言う気もする。確かに本試験の主旨とは反してはいる。

 

 妻が持って帰った新聞の切り抜きをやってみた。ぱっと見て分量が凄く多い。これ60分でやるのか。大変やな。

 

 普段頭の体操で問題を解く際は公式なんかは見ながらやるが、今回は何も見ずに60分でやってみた。大問が4問あるが1問終わったとこで30分経っていた。絶望的、もはやこれまで、である。公式がうろ覚えで思い出せない。国語みたく文章が長いんで読み違えして計算していた。ワシの頃に習ってない知らない分野が出ていた。→これを言うと大卒なのにそんな訳ねーやろと突っ込まれた。そんな事ゆう奴は大卒を語る資格はない。

 

 と言うわけで採点すると28点だった。28点でもサラリーマンくらいにはなれるから安心してくれ。サラリーマンに必要なのは点数ではなく、ひたすら耐える忍耐であるからだ。明日も会社へ行こう。

ケルルンクック

 小学生の頃、国語のテストで草野心平の詩を読まされ、『ケルルンクック』は何の鳴き声か?と問われた事があった。

 

題名 春のうた

 

ほっ まぶしいな

ほっ うれしいな

みずは つるつる

かぜは そよそよ

ケルルン クック

ああいいにおいだ

ケルルン クック

 

 これは春に土中から出てきた冬眠カエルの気持ちを読んだ詩という設定なのだ。もちろんこのような設定は後で知った。

 

 いくつか鳴き声の選択肢がある中、ワシはカエルを選ばず、該当生物がないためよく分からんままにトンビを選んだ。周りからはえらく馬鹿にされた。ワシ的にはカエルはケロケロで、ケルルンクックと鳴く奴はおらんというのが理由だ。音感が狂っているのではないかと思った。草野の時代と現代とでは音感が異なるのかもしれない。

 

 確かに現代においても音感は人種で違う。犬はワンワンだが、アメリカではバウワウだ。ネズミに至ってはチューチューでなくスクイークスクイークである。どこに世界にスクイークと連呼して鳴く生き物がいるのだ。

 

 日々の世界で見ているものや聞いているものは実は人によって随分と違うものなのかも知れない。自分が見えているから貴方も同じように見えている、という常識は疑った方が良いかもしれん。そういえば最近話の通じない奴が多い。きっとみんなワシとは違う世界に住んでいるのだろう。

 

 

 

前歯復活

 

 大変お騒がせしました。この度、令和の前歯大修復が完了致しました。歯科医院に赴いたところ、これやったら放置でも問題ないでーと言われましたが、念のためレジンで補強致しました。15分でサクッと終了致しました。絶好調です。

 

 歯科医師曰く、突然ひび割れに沿って歯が割れることはままあるとのこと。前歯で硬いものを食いちぎらない様に歯は大事にして下さい。

働けど

 

はたらけど はたらけど猶(なお)わが生活

楽にならざり ぢっと手を見る

一握の砂 石川啄木

 

初めて読んだ小学生の時、当たり前だが意味わからんかった。下手くそな短歌だと思った。何という事だろう。今、言葉が身体に染み渡る。そこでオマージュを考えた。

 

はたらけど はたらけどなお わが生活

会社辞めれず じっと株チャート見る

『一握の希望』 ぴよりんアイス

 

はたらけど はたらけどなお わが業務

人に振りたく じっと隣見る

『一抹の不安』 ぴよりんアイス

共通テスト始まった

 

 今年も共通テスト(旧センター試験)が始まった。コロナ第6波や大雪やトンガ津波や刺傷事件などいろいろあった。

 

 ワシも30年ほど前にこのテストを受けたが、いまだに当日のことをよく覚えている。湾岸戦争勃発の数日前でアメリカの空爆警告期限が迫っている緊迫した世界情勢であった。(実際5日後に戦争が始まった)そんななかワシは平和な試験会場(初めて訪れた京都府大、講義室の一番後ろの席)で試験問題をカリカリと解いていた。

 

 あまりの世間との温度差にワシらは朝から一体何をやっとるんじゃろ?ととても空虚な感じがし、途中からどうでもよくなってきたのを覚えている。(もちろんそんな奴、ワシひとりだけ)この当時は自分の意識が自分に属しているという感覚が薄く、自分が自分でないような感じがして、何においても他人が眺めるような感じで自分のことを考えていた。また世間が一大事のときに大した関心も持たずにみな己の点数をとるためだけに動いているという利己的行動にも美しさを感じれなかった。

 

 日本の大学試験は我慢暗記クイズゲームである。試験勉強においては阿保になりきりそのクイズゲームに没頭するのが最も効果をあげる方法、と今では理解できる。これが将来何の役に立つのかとか、やる意味あるのかとか、もっと他にやるべき大事なことがあるのではとか、そこに哲学的意味などを模索してはいけないのだ。所詮、人を選別するためのツールであり、もともと意味などないのだから。

 

 周りの状況など一切無視して点をとることだけに集中するのが大事なのである。ある意味で阿保になることが必要なのだ。阿保になることを割り切って我慢できる者が優秀といわれる大学へ進めるという、この言葉遊びのような矛盾。ワシは阿保になりきることはできなかった。試験という選別においては敗者であった。

 

 あれから30年余り、仮に成績がよく他の大学へ進んだとして、現状生活に何か違いがあったのだろうかと考えることがたまにある。田舎の地方国立に引っかかる程度の出来なので贔屓目に見てもさほど有能とは言い難いが、もしこれより多少なりともレベルの高いところへ行っていたとしても今の生活に大きな変化はなかっただろうと思う。

 

 以前の、また現在の勤務先ではワシより遥かに優秀と称されている学校を出た人が大勢いたが、ワシと同じような仕事や作業を日々暗い顔をしてぶつぶつ文句言いながらやっているのだ。この国の労働者で最も要求される能力は、打たれ強いメンタルと体力と忍耐と周りと上手くやる愛嬌であることを知った。専門知識などは二の次、三の次で、最悪無くても何とかなる。人間性あってこその専門性なのだ。こんなことならもっと体をちゃんと鍛えておくべきであったとよく思ったものだ。

(幸い大病はないが、ヒョロガリでアレルギー持ちで丈夫ではなかったので。なんか今は腹回りが出てきた)

 

 試験勉強の意味は何か?それは目指すレベルはともかく、全力でやり切った体験を若いうちに持つこと、以外に大した意味はない。理不尽なくらいしんどい体験をしていると、その後起こる同程度のしんどいことは、あの時よりマシと乗り越えることができるのである。その体験は勉強でなくても、スポーツでも、音楽でも、将棋でもなんでもいいのだ。一部の職を除き多くの場合において、その体験の内容自体は将来ほぼ役には立たない。

 

 こういったことを若い人間にまず最初に教示することが大人や教育者の役目だと割と本気で思うのだが、なかなかこのように言ってくれる人がいない。なぜかみんな本当のことを言わない。不思議だ。

貯蓄から投資

 

 最近雑誌やネットに投資記事や特集がやたら多い、国も明らかに貯蓄から投資への意識誘導を行っている。国が成長している過程では利率も給与もGDPも年々上がるため、貯蓄でさほど問題ないと思う。

 

 しかしながら日本はこの30年ほぼ経済成長してないという世界でも極めて稀な国になってしまった。そのため、日本以外の発展・成長している他国(主に株式市場の大きいアメリカ)に投資せざるを得ない。自分の所有している資産を自身の国へ託すことができず、他国の発展に委ねるというのは考えようによっては悲しい。

 

 加工貿易国は原材料を輸入に依存するため、価格の上がった材料を海外から購入することになる。海外では経済水準が上がっているから材料価格も上がっているのだ。そのため給与は上がらないけど、国内の物価は値上がり、税金も上がり、益々住みにくい状態になっていく。それが今の日本だ。異常な国の住民は自らが世界の中で異常な状態にあるということに気付かず、いや気づけずにこれまでのやり方を踏襲し遅れをとっている。周囲が見れない視野狭窄という以外、言葉が見つからない。一体なんのために大半の国民が外国語や世界史を必修で学んでいるんだろう。テストでいい点を取るためにやってるんではないんだよ。

 

 小室氏結婚の件もあって、アメリカ大卒の初任給の高さといった情報も知れるところになり、なぜこんなにも日本と違うのだろうと疑問をもった人も多い。アメリカは物価も高いがその分給与も凄く高い。30年前はアメリカと日本の初任給とは同程度の水準であった。アメリカ(アメリカだけでなく他の世界の国は)は30年で経済成長し、日本は成長しなかった(←ほんとに日本だけやで。経済成長してないのは。ビックリするでほんまに)。単にこの違いである。ということで、最近国の政策に対してイライラすることが多い。無慈悲なテロまがいの事件多発なども世相を反映している。

 

 日本はもはや先進国ではなくなったという記事がプレジデントオンラインに記載されていた。ここでも主張は大体同じで、いつまでも先進国気取りで、没落に気づいてないのは当の日本人だけと述べている。まったく同感。過去の栄光にすがり、現状は没落しているのにプライドだけは一人前という、他国から見れば残念で痛々しい人々だ。

 

 これだけ瞬時に世界の情報がとれるのに、また世界が日本をどう見ているのかがわかるのに、この能天気ぶりはなんなのだろう。推測するに日本メディアの報道が世界情勢を報じずに日本のことばっかり報じ、みんなそれを見ている、あるいは、海外のニュース記事を読める環境にあるが読まないということなんだろう。自ら外部へ情報を取りに行く能力が欠けているというか。

 

 この先、経済だけでなく日本の人口が減少するのは人口ピラミッドを見れば確定で2100年には6000万人になる試算である。これはまず当たるだろう。現在の半分である。かつて栄華を極めたスペインやポルトガルなんかのように世界にプレゼンスを示すことのできない辺境の島国になってしまうのだろうか。まあそれはそれで、日本の身の丈にあっているような気もするが。

天空の三鈷寺へ行く

 

 コロナが猛威をふるう3連休、運動のため三鈷寺へ行った。すぐ隣の善峯寺の方がたぶん有名であるが、三鈷寺も天空の寺で有名らしい。小学生の遠足時にこの寺を訪れているので40年ぶりくらいである。

 

 全路を歩くと遠すぎるので近くの休憩所までチャリンコで行った。そこからは落ち葉の積もった山道を登る。事前調査してきたので低山トレッキング靴をばっちり履いてきた。入り口から登ること15分ほどで寺の山門裏側に到着した。天気も良く眺めも良い、京都盆地が見渡せる。さすがに天空は言い過ぎのように思うが隠れた絶景ポイントであるらしい。朝早かったためか来客はだれもおらず、しばらくベンチで景色を眺めたあとに下山した。

 

 この辺りは年末に行った大原の里に雰囲気が似ている。地名も大原野で似ている。近くに善峯寺や十輪寺などの名刹・古刹もあり、道沿いでは野菜なんかも販売している。悲しいかな大原と違って温泉が湧かないのでメジャーな観光地にはなっていない。天然資源を有しない地域はやはり不利ということがここを見てもわかる。

 

 帰路途中に無人販売店ででかい大根を1本100円で購入し、家温泉(湯船に硫酸マグネシウムを入れた)で半身浴を行い疲れを癒した。左ひざを曲げると痛かった。時間はまだ13時であった。

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登頂口

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眺め