自分で自分のことについてべらべら話す輩が多い。他人が紹介しているとか、他人から喋ってくれと要請があってとか、ブログに書いとくから興味があれば、というならともかく、こっちが聞いてもいないのに、自分で自分のことばっかり話すタイプの人種である。聞かされる方ははっきり言ってほぼ興味がない。
節操がないのか、自分のことを聞いてほしい”構ってちゃん”なのか、個人主義ここに極まれりなのか、自己発信アピールが大事という時代風潮なのかはわからない。
自分のことについて自分で話すと矛盾が生じるというのは昔からよく知られた話だ。自己言及のパラドックスという。自己を含めて言及しようとすると発生する逆説のことだ。
有名なのは『私は嘘しか言いません』といったような文。これが真であればそれは偽(嘘)になるし、これが偽であればその内容は真になる。古い時代の論理学でこれらの内容は議論の俎上にのってきた。なので、極力自身のことは自分で喋らない、自分で自分のことは考えないというのが、人類が経験的に獲得した自分を守る自己防御術であり、また処世術である。特に日本人は自己主張しないという風土の中で醸成され根付いた、自己との向き合い方であるような気がする。
では、自分のことを考えなければ普段一体何を考えて生きるのか。むろん他人のことを考えるのである。楠木正成の滅私奉公よろしく、人は自分のために生きるのではなく他人のために生きるようプログラムされた動物である。この不文律を逸脱するとき、その人はこの世での役割を終えて寿命を迎えることになる。そんなことを散歩しながら考えた。