もはやこれまで

隠遁を願うアラフィフ会社員。中学校の卒業文集で将来の夢は”何もしないひと”と書いた。あれから35年、夢も画力も変わっていない。

知識が消滅していくことへの未練


 ネットの投書にて、折角懸命に学んだ学生時代の知識や資格取得の過程で得た知識を今やほとんど覚えていない。知識がどんどん抜けていくのは空しい。世間の人はどうなのだろうか。あの努力は一体なんだったのか、という30代くらいの相談が掲載されていた。

 

 コメントとしては次のようなものが多かった。その知識を普段使って毎日業務でもしない限り大概全て忘れる。空しさを感じる必要はない。脳は忘れるようにできている。

 

 脳はその人間を生活環境に上手く順応させ、身の安全確保を第一に優先するように指令をだす。忘れるということはその人が生きていくのに不要な知識であるとその時点で脳が判断したということである。生命維持に関わるような喫緊の知識であれば忘れることはないし、むしろその知識を条件反射のレベルにまで昇華させる。

 

 喉がカラカラ➡水分を摂る、というのはある意味、条件反射にまで高められた知識とも言える。喉カラカラで脱水で倒れる寸前だったけど、水を飲めばいいなんて知りませんでした、そんな知識があるなんてすっかり忘れてました、という人は皆無だろう。

 

 例えば、英語が聞き取れない、英単語が覚えられない上にすぐに忘れるというのは脳がその知識や能力は現時点で貴方にとって不必要と判断しているからである。なのでもし何らかの理由でこれらの習得が必要ならば、毎日英語を聞き、暗記するという行為を繰り返し一定期間継続する必要がある。そうやって脳指令への抗いを繰り返すことで、これは生きていくために必須知識であると脳に錯覚させ、一次記憶として定着するのである。

 

 従って普段での訓練や使用が滞ると記憶から消去されることになるのは自然なことだ。ジョン万次郎のように裸一貫でアメリカへ放り込まれれば、土佐弁しか理解できなかったとしても、死活のために英語能力を獲得せねばなるまいと脳が判断、覚醒し、いずれペラペラ状態になる。ジョン万は漁師をしながら単語帳を眺めていたわけでもないし、駅前英会話に通っていた訳でもない。

 

 このことから考えても、学生時代の知識や昔とった資格試験の内容を綺麗さっぱり忘れることは当たり前のことである。

 

 脳がコンピュータストレージのように記憶蓄積型の媒体として機能するのであればなんて効率が良いのだろう、と考えたことは一度や二度では無い筈である。我々はなんて無駄なことを繰り返しているのだろうと。

 

 人間というのは底の抜けた袋のようなもの。食べ物や知識を体に入れては出し、更に入れては出すを繰り返し、そのうち最期には消える存在である。大したことはない。小説『大江戸釣客伝』の中で江戸時代の絵師、英一蝶がなんかそんな台詞を言っていたような記憶がある。消えゆく知識に未練を感じることの方がおかしいのかもしれない。