もはやこれまで

隠遁を願うアラフィフ会社員。中学校の卒業文集で将来の夢は”何もしないひと”と書いた。あれから35年、夢も画力も変わっていない。

苦手を克服することは尊いことなのかについて


 苦手を克服することは一般論に於いて素晴らしいと思う一方で、そんな時間があるなら得意で好きなことを磨くべきという考えもある。苦手を克服してもマイナスが精々ゼロレベルになるだけで大して付加価値はつかないし、単に自己満足と思われるかもしれない。上手く克服できればいいものの、もし出来なければ余計に嫌になりトラウマしか残らない。


 どうでもよいが最近物色していた大学の化学物理研究室(福井大・青木研究室)HPの教育方針に同じようなことが書いてあって心強く思った。電気化学測定関連の論文が多くよく参考にした。折角なので記載しておこう。

http://asura.apphy.u-fukui.ac.jp/~aoki/flame_jp.html

 

<研究室の教育方針>

・手を動かせばわかってくる

・数式を読まずに、自分で導出せよ

・道具(ペンチ、のこぎり、ドライバー、こて)を手にせよ

・自分を信じよ、人の手は当てにならぬ

・できない問題(とくに数学)はあきらめよ。不向きである。 

➡ほんまこれ。苦手なのはそもそも素質が無いから。関わらないか金で解決に限る。

・英語は誰でも出来る。米国の子供が勉強しなくても英語で話をしているではないか

➡嘘ではないが日本の子供はみんな日本語話しているというのと同じ。そらそうじゃ、生きるために必須だから。英語ができないのは必須ではないの裏返し。

・出来ることを探し、伸ばせ。 

➡ほんまこれ。得意分野の一点突破がよいと思う。

 

 苦手を克服するため対峙するか、それとも無視して他のことをやるか、という選択の岐路は20代までかと思ったりする。若年時は自身の向き不向きの適正を知るため、苦手であっても克服しその後に大得意に化けるケースも稀ではあるがあったりするからである。しかし年齢を経てワシみたく50を過ぎてからは苦手なことは無理にやらなくてもよいと思うようになってきた。苦痛だし楽しくないし時間ももったいない。端からこんな怪しい心持ちでやっているため大概の場合が上手く行かない。

 

 社会に出て苦手なことは金を払って得意な奴にやらせればよいという理屈や技も覚えた。ワシは米やパンを作ることはできないが日々これらを食している。服や靴を作ることもできないが日々これらを着用している。病気や薬の知識はほとんどないが、代わりに医者に診てもらっている。生まれて此の方、天然ガスを採掘しに行った覚えはないが、台所コンロのボタンを押せばガスに火がつく。

 

 なぜこんなことができるのか?こういうことが得意で長けていて生業にしている人達がいるからである。社会とは相互扶助しながら自分の欠点と未熟な部分を補完してくれる合理的なシステムともいえる。なんでもかんでも自分ひとりでやる必要はないし、そもそもできない。単体なら脆弱であるが集団として団結すると強みを発揮できるのはある意味自然の摂理である。毛利家3本の矢のような話。世の中このような感じで相互に依存しながらギブandテイクで回っているのだ。では普段テイクばかりしているワシがギブできていることは何だろうか。ほんと何でしょうね。いまだにわからん。