もはやこれまで

隠遁を願うアラフィフ会社員。中学校の卒業文集で将来の夢は”何もしないひと”と書いた。あれから35年、夢も画力も変わっていない。

気付く、ひらめくに関する考察

 頭の老化防止のために朝起床してから時間がある時はyoutubeで挙がっている易しめの数学問題(といっても大学入試問題だけど)を1題解いている。


 途中で飽きて中断があったりしながらもなんだかんだと珍しく結構続いている。例えば英語を続けるのは正直若干の苦が伴う(多分、会社でも使う場面が多いからかもしれない)が、こちらはすんなりと取り組めるため、できる/できないは別として割と適正があるのかもしれない。


 書き留めたノートも冊数が増えすぎて大方処分したが多分累計で20冊は優に超えている。

 

 先日、正五角形の対角線長さを計算する問題で少し思うことがあった。懐かしい、学生の頃やったなーと感じながら算出はできた。対角線長を未知数xとおいて三角形の相似比を利用し、2次方程式に持ち込む手順である。


 これはこれで正答だったのだが、そのあとの問題でなぜか解説としてトレミーの定理を取り上げていた。トレミー定理は別名プトレマイオス定理ともいう。円に内接する四角形に関し、対角線の積は対辺の積和に等しいというものだ。


 この定理を取り上げた後、再び正五角形の対角線長さを計算する問いが設定されていた。以前やった知識を定着させるための配慮なのかなー、最近youtube講義はよくできていて、知識伝達の目的に限れば学校が要らなくなるなー
と安易に考えていた。ところがその後、からくりが理解できた。


 一見、関連性がないと思っていたが、正五角形は円に内接することからよく見るとトレミー定理が利用できる。これを使えばほぼ瞬間的に対角線長さが計算できるというものだった。これはこれでよい。些細なテクニックとして受験生など必要な人はありがたく学べばよい。


 ここで凄く気になったのは、なぜこのこと(トレミー定理の利用)に気付けなかったのかというところにある。

 

 今回の事例に限らず日常生活でもこのような場面は多い。後で言われるとなるほど確かにと納得かつ理解でき、事前に言われた知識も持っていたにも関わらず、その場では気づけない、思いつかない、ひらめかないという現象である。気付く人と気づけない人の分水嶺となるその要因は一体何であるのか。


 気付かない状態と気付く状態の乖離ギャップを埋めるために、他者より多く時間をかけて訓練せよという方法論が世間ではよくとられている。一見万人受けする言葉であるが、ワシは好きになれない。

 

 なるほど確かにそうすれば多くの経験値を積むことができるし場数も増えることから、より気づく状態に近づけるであろう。数学問題の例で言えば、50題よりも100題、100題よりも200題解く練習をした人が、気づく状態に近くなるのは確かである。


 けれども200題訓練した人が新たな201題目を確実に解けるかといえばこれは多少疑問である。案外50題しか訓練していない人があっさりと解いてしまい、しっかり200題訓練した人が解けないという場面も世間ではよくある。


 感情論でそんなのズルいじゃないかーとか言ってもこれはもう仕方がないのである。大半の努力(と本人が勝手に思っているもの)が無駄になるのは人間社会では昔からよくあることで特段珍しくはない。


 ここでいう訓練というのは乖離ギャップを限りなくゼロに近づける作業であり、個人の特性や素質を尖らせる作業でもある。残酷だけど元々の特性が良くなければ尖らせても限界があるということだ。磨いても光らない玉があるということ。


 従ってワシなりの分水嶺となる要因とは、その人の特性+訓練に依存するということ。訓練は後天的かつ人為的に制御できるが、もともとの特性は先天的で制御不可である。


 以上のことから思うに、人生、好きで大して何もしなくても得意な土俵以外の場所で勝負するのは損失であるということだ。苦手なところは得意な人にやってもらえばよい。

 

 そうであれば、なぜ今回ワシはトレミー定理の利用に気付けなかったのか?それは生来の数学的才能が大したことはなく、かつ他者を凌駕する訓練努力もしていないから、、、ということになる。この結論に関してだけは激しく納得できるものである。