もはやこれまで

隠遁を願うアラフィフ会社員。中学校の卒業文集で将来の夢は”何もしないひと”と書いた。あれから35年、夢も画力も変わっていない。

エクセルマクロは必要か

 まいどなニュースに記事が上がっていた。エクセルでVBAができない人が約半分。IT社会なのにこれでいいのだろうかという感じであった。

 

 感覚的には半分もできる人がいるのか?と思う。ワシはデフォルトで書かれたプログラムコードを貼り付けての利用ならできるがゼロから作るのは簡単なものに限られる。元々同じような書式のグラフを作るのにVBAを使ってる先輩がいて、使ってみたいと思ったのがきっかけ。必ずしも必要でなく有れば便利という程度。

 

 今からやるならVBAよりもPythonなんかが汎用性も高いので人気かも。ワシもpythonを勉強中であるが正直なかなか難しい。毎日継続しないとすぐ忘れてしまう。最近の学生は幼少からプログラミング授業も学校であるのサクサクとできるんやろな。羨ましい限りです。

 

 

徒然草第十二段 同じ心ならん人と

久々に再開。

 

『自分と同じ心をもっている人がいると気心がしれ会話も弾むが、そうそうそんな人はいない。よって、多くの場合は相手に気を使いながら接することになるのでむなしく切ない。』

 

 どこかで書いたが、自分が見たものや聞いたことを相手も自分と同じように見ている、聞いていると思わない方がよい。見て聞いた情報がその人の脳に届くまでに各人のバイアスがかかって脳内処理されるために人によっては全く違ったものになってしまう。

 

 ワシも最初は話がかみ合わないと、むかついたり、腹が立ったり、物にやつあたりしたり、相手が阿保だと思ったりしていたが、最近は疲れるので、この人間はワシとは全く違う人種で違う世界の生き物なのだと思うことにしている。違う生き物なので話が合わないのは当然で、運よく合えばラッキーということにしている。そのほうが短い人生、楽に生きれるなー、なんでもっと早くこれに気づかんかったのだろうと思ったりする。

 

 

50才になってしまった。

 

 とうとう来てしまった。新入社員のとき、社内の50才の人間を見てなんてオッサンなんだろうと幻滅した覚えがある。将来こんな風になりたいと思えるオッサンが誰もいなかった。バリバリてきぱき働いているのは30代でその次に40代、50代は一体何をしているのかもよくわからなかった。その50代のリストに自分が名を連ねてしまうとは。この先どのように生きていこうか、を思案中である。

 

 50才の記念に会社から通知が来た。これまで十分働いたからもうゆっくり休んでねという通知であれば名残の涙を流して(うそ、狂喜乱舞のまちがい)受け取るが、先日受けた健康診断の結果であった。結果は、、、、!!

 

 お前はすぐ病院へ行け!という通達だった。面白くない。以前から高かった血液検査のLDL-c(悪玉コレステロール)が基準値を大幅に上回ったのだ。来るべきXデーが遂に来たと思った。これまで懸命に大量に飲んだLDL-cを低下するという噂のトマトジュースは一体何だったのか。全く効果がないではないか。努力は報われず正義は滅びる、という学生の時に読んだ本の題名を思い出した。

 

 仕方がないので内科ではなく良さそうな循環器内科を選定し、土曜の朝から赴いた。出てきたのはワシとほぼ同い年の先生だ。持参した血液検査(今回のと10年前のデータ)の結果を見るなり、嗚呼、180台とても高いー、年々高くなってるー、と言った。その他の項目や体重なんかは問題ないため、高めに出る体質なのでしょうということ。10年前も正常値であったが上限値に近かったのだ。

 

 このタイプの人は食事や運動を気を付けてもなかなかLDL-cが下がらないのですよー。そういう体質だからー、と言った。そして、実は私(先生のこと)もLDL-c下げる薬を毎日飲んでるんですー、私は数値140台で飲み始めましたーと自慢げに喋られた。見た感じ全く太ってはいないが、数値が高めに出るとのこと。LDL-cと心筋梗塞発病は明らかに相関性があるために、循環器内科医としては看過できずに早めに予防策をとったということらしい。

 

 そういうわけで『ロスバスタチン2.5mg』を毎日1錠飲むはめになってしまった。おそらく未来永劫続くのであろう。歯医者、皮膚科、眼科に加えて、循環器内科も定期訪問のレパートリーに加わってしまった。しかし、これだけ医療機関にかかりながらでないと健常を維持できないとは。人間50以降は医療や環境に無理やり生かされとるという感じやね。どうでもいいが病院の診察カードばかり増えていくのは何とかしてくれ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

auの不通騒動

 昨日からau電話の使用が出来なくなっている。普段はネットしかぜず、こちらから電話をすることはほぼないので気づかなかったが、アンテナが圏外になっているという妻の申告を受けてようやく気付いた。

 

 ネット上でも話題になっている。電話がないと緊急時や会社関連の対応が大変そうである。個人で固定電話を自宅に引いている人が少数になってきつつあるため、もはや社会インフラのひとつと言ってよい。

 

 実家にこのことを知らせようということになり、久しぶりに公衆電話を使うことになった。ワシが公衆電話を最後につかったのはおそらく大学生の時である。家の棚を漁ると使いさしのテレホンカードがでてきたのでその束を持って妻が駅前の公衆電話へと赴いた。が、実家はコールしても誰もでなかった。皆忙しいのである。

 

 これが今回活躍したテレホンカードである。嗚呼、平成は遠くなりにけり。

実はほとんど度数が残ってなかった。。汗

 

 

 

 

脱二酸化炭素について思うこと

 脱二酸化炭素が気候環境に有効かどうかはさておき、世界はこの流れにある。

 

 CO2 は炭化水素を燃焼した際の最終生成物の一つで反応性の低い非常に安定物質である。エネルギーからみた物質の安定性はその物質のもつギブス自由エネルギーで表すことができるがその値は - 394 kJ/mol。

 

 再利用するにも、もともとエネルギーレベルの低い CO2から中間有価物質を合成するためにどうしてもエネルギー源として還元用の水素が必要。大量に利用可能で安価、かつ製造・利用過程で CO2排出増につながらない水素調達が最大のボトルネックとなっている。

 

 究極的には製造過程で CO2を排出しない再エネ由来水素が必要になるのは明らかだが、技術革新・普及は困難を極める。それまでのつなぎとしてメタンを水素源利用もひとつの候補と有識者は言っている。

 

 地球からCO2を排除しなければならないと仮定して、どんな方法があるか考えるとCO2を地球の土中岩盤へ固定化、海洋投棄し固定、宇宙へ捨てるくらいしか多分ない。

 

 土中岩盤へ固定化はすでに取り組まれている。日本では苫小牧で実証が行われている。しかし、CO2を集め(当然液化にしないと運搬効率悪いね、液化の電力はどうする?)、苫小牧まで運び、ポンプで地下へ圧縮CO2を送るとなると、このエネルギー(電気やガソリン)などを考えると一体どんだけ意味あるのかと思う。地震でも起こり岩盤亀裂が入れば、地上へ漏れ漏れになり苦労が水の泡だ。一体何やってるのという感じになる。

 

 従って本気で大規模にやるには海外で地震が起こらない、かつ石油なんかを汲み上げた空洞跡の利用が良いことになる。日本で排出したCO2を海外現地まで運ぶのにCO2をさらに排出するという矛盾はある。

 

 海洋投棄も日本郵政なんかがプロジェクトに参加している。ドライアイスを海に沈めるとある程度の深さから海水温度や圧力が保たれるので気化せず固体のまま海底に貯まるらしい。日本は横に海溝があるのでいいんじゃないのと思った。けどこれもいろいろと越えるべき課題はありそう。生態系の問題とかほんとにそのままの位置で固形CO2は形をとどめたまま動かないのとか。

 

 宇宙に捨てるというのはなかなか素敵である。しかし誰がどうやって宇宙まで持ってくいのだろう。

 

 化石由来エネルギーを使うということはCO2を排出するということである。原子力エネルギーを使えば核廃棄物が排出されるというのと考え方は同じだと思う。CO2がいよいよダメということになると原子力利用が再び市民権を獲得するのだろうか?

 

 

2022GWも終わり、明日から仕事

 

 今年のGWはほぼ家で過ごした。外出も近所の食料品スーパーに行くだけで引きこもり状態である。休み前にはやりたいこと、行きたいところを書き出してはいたものの例年のごとくほぼ達成することはなかった。あれこれ妄想で計画するのが楽しいのであってやるやらないは気にしない。

 

 前半は天気も悪く寒かった。地震も頻発していたので家で掃除と断捨離と洗濯と非常食料/飲料水のチェックなどを行った。そのほかは図書館でかりた本を読んだり、ネットで映画を見たり、だらだらと会社の持ち帰り仕事をしているうちにすぐに一日が過ぎた。

 

 TVを見ないので世間の状況をよくは知らないが、ネットニュースでは行楽地はすごい賑わいの様子。コロナ移動制限が解除されたせいもあってか多少の民族大移動も起こっているようである。どこかの潮干狩りの様子が掲載されていたが、貝よりも人の方が多そうな密集ぶりであった。その中で密には気を付けようなどとアナウンスしている。無理な話だ。

 

 読書は先月から読んでいたジョンマンを一気に片づけた。現在第7巻の邂逅編を読んでいる。なんとこのジョンマン、7巻もありながら完結していないことが判明した!道理で物語の進展が遅いはずである。7巻の時点でまだジョンマンはアメリカにいるぞ。これからゴールドラッシュで沸くカリフォルニアへ金を掘りに行くらしい。一体この小説はいつ終わるのだろう。8巻発売は多分2年後である。涙。

 

 休憩はたっぷりできたので明日から(今日から?)の仕事、鬱陶しいけど頑張ろう。

 

 

 

 

 

将棋の藤井五冠を見て思ったこと

 

 凡人が生まれながらに有能な奴と互角に張り合うには悲しいことだが、継続した一点集中突破作戦しかない。


 なにかこれ、と決めた分野に対して人生の大半のエネルギーをその分野に注ぎ、しかもできるだけ幼少期から他人よりも長くしぶとく継続すること。そうすれば不幸にして才能がなくとも世間一般よりはよく知っている、よくできる、ちょっとだけ凄いという部類に入ることができる。ただし残念であるが多分超一流にはなれないし、分野によってはそれを生業として糧を得ることができるかは怪しいところがある。


 学業やスポーツなどその道を極めた人に対して、専門バカだの、それしかできない非常識人だのとクレームをつける輩が時々いる。クレームをつける輩に限って、当の本人は何の専門も持たず、ほかに何もできないただのバカである場合が多いので適当にあしらえば良い。


 そうなのだ。凡人が輝くためにはあれもこれもとやっている時間はない。これと決めた分野を絞るのも凡人にとっては至難の業、幼少期に周囲の人間を含めてその人に適した能力や才能など分かるわけがない。


 なので江戸時代の親の職業を代々必ず継ぐというのは理不尽なように見えて結構理にかなっているのではと思ったりする。他に選択肢がないのであれば幼少期からこれで生きていくという覚悟が決まる。現代は選択肢が多すぎ、逃げ道が多くあり、覚悟が決められないのだ。


 またそれを無限の可能性を秘めているなどと綺麗ごとを言う。可能性など最初からさほどない。与えられた時代と場所で与えられたスペックで勝負するしかない。


 継続して一点集中突破、誰にでもできるが凄くハードルが高い。やりたいと思う人10000人、実際に始める人100人、それを続ける人1人。蓋し名言である。多くの場合は1人に入れず、9999人側に落ちつき、こんなはずではとボヤくことになる。


 藤井五冠は恐るべき才能の持ち主だ。神の子といわれるだけのことはある。神は運命のいたずらで気まぐれにこのような人間を地上に送り込む。