もはやこれまで

隠遁を願うアラフィフ会社員。中学校の卒業文集で将来の夢は”何もしないひと”と書いた。あれから35年、夢も画力も変わっていない。

将棋の藤井五冠を見て思ったこと

 

 凡人が生まれながらに有能な奴と互角に張り合うには悲しいことだが、継続した一点集中突破作戦しかない。


 なにかこれ、と決めた分野に対して人生の大半のエネルギーをその分野に注ぎ、しかもできるだけ幼少期から他人よりも長くしぶとく継続すること。そうすれば不幸にして才能がなくとも世間一般よりはよく知っている、よくできる、ちょっとだけ凄いという部類に入ることができる。ただし残念であるが多分超一流にはなれないし、分野によってはそれを生業として糧を得ることができるかは怪しいところがある。


 学業やスポーツなどその道を極めた人に対して、専門バカだの、それしかできない非常識人だのとクレームをつける輩が時々いる。クレームをつける輩に限って、当の本人は何の専門も持たず、ほかに何もできないただのバカである場合が多いので適当にあしらえば良い。


 そうなのだ。凡人が輝くためにはあれもこれもとやっている時間はない。これと決めた分野を絞るのも凡人にとっては至難の業、幼少期に周囲の人間を含めてその人に適した能力や才能など分かるわけがない。


 なので江戸時代の親の職業を代々必ず継ぐというのは理不尽なように見えて結構理にかなっているのではと思ったりする。他に選択肢がないのであれば幼少期からこれで生きていくという覚悟が決まる。現代は選択肢が多すぎ、逃げ道が多くあり、覚悟が決められないのだ。


 またそれを無限の可能性を秘めているなどと綺麗ごとを言う。可能性など最初からさほどない。与えられた時代と場所で与えられたスペックで勝負するしかない。


 継続して一点集中突破、誰にでもできるが凄くハードルが高い。やりたいと思う人10000人、実際に始める人100人、それを続ける人1人。蓋し名言である。多くの場合は1人に入れず、9999人側に落ちつき、こんなはずではとボヤくことになる。


 藤井五冠は恐るべき才能の持ち主だ。神の子といわれるだけのことはある。神は運命のいたずらで気まぐれにこのような人間を地上に送り込む。