もはやこれまで

隠遁を願うアラフィフ会社員。中学校の卒業文集で将来の夢は”何もしないひと”と書いた。あれから35年、夢も画力も変わっていない。

入門者のPython 立山秀利 (BlueBacks)

 

 約400ページの本書をようやく終了した。これまでに何度も図書館で借り、今回も借りた後1回延長までした。たぶん最初に借りてからは2年以上は経過している。

 

 確かに内容を追ってコードを打ち込んでいけばプログラムは動く。けれどもこれを入門者用と言われても困る。本書は実際にプログラム作りながら学んでいくというもので、習うより慣れよの実践タイプである。それぞれのコードの意味するところがわからない。このような経験ストックを沢山増やしていくのが結果的には近道なのだろうが目標が遠すぎて萎えてしまいそう。

 

 昨年、会社のe-ラーニングで半年間、少しだけpythonを触ったこともあって、ところどころわかるところがあったものの、それでもところどころである。

 

  さてこれから何をしよう。今無料公開している大学の講義テキストを漁っている。一つは、『pythonで学ぶプログラミング』で東洋大経営学部の講義資料である。もう一つはネットで評判の『プログラミング演習python2021』で京都大学から無料公開している。これも全学部共通科目の講義である。内容をみると普通に難しそうであるが、理系は当然、文系であっても今はこんなことを勉強するのかと愕然とした。

 

 ワシのころは大学でfortran77の情報系講義があったが、実際に動作環境がないために(PCを初めて購入するのがその2年後だ)本でコード記載のルールだけを習った。これがひたすら眠いだけで面白くも何ともない。まあ当然で実際にPCに入力しプログラム動作確認しなければつまらんだろう。よくあんな講義が成立したな、それを想えば今はほんとに恵まれている。

 

 ともあれページの薄い東洋大の方から毎朝会社の始業前に着手したところだ。このテキストはプログラミング言語の歴史などから始まっており興味深い。これもPCスキルや英語と同じで毎日使わないとすぐに錆びてしまうし身につかない。令和時代を生きるって大変だ。

 

 

 

 

 

 

五十肩が痛い


 いつものようにアトピー 薬を貰いに漢方内科へ行ってきた。いつもの薬に加えて五十肩の漢方ももらってきた。桂枝葛根湯である。最近、痛みで夜中によく目が覚めるために昼間めっちゃ眠い。


 整形外科へ行っても原因不明でシップとロキソニンを渡されるだけなので、なんとか漢方で回避できないかと企んでいる。


 五十肩は激しい痛みが現れる急性期と鈍い痛みが続く慢性期があるらしく、治療してもしなくても数週間~半年後に痛みがなくなるという特徴があるらしい。


 せっかく左手マウスを練習してほぼ慣れてきたのだが、負荷軽減のために右手マウスに戻した。発症して約1.5ヶ月、何とか耐えたい。

ワイヤレスイヤホンを買った

 

 ワイヤレスイヤホンを購入。その出来の良さに今さら驚いている。PCで動画をみる際には家にあった有線イヤホンを用いてたが線が鬱陶しいため、勧められて購入した。


 貧乏性でまだ使えるからついつい古いものを使ってしまうのだ。OA機器は今や使い捨てなので、もったいない気持ちはわかるがどんどん新しいものに乗り換えた方が良い。
(楽天ポイント購入なので実質無料でゲット)


 イヤホンはBluetoothで飛ばして接続する。普段は充電カプセルに入っており、蓋を開けると信号が飛び、PCやスマホと自動ペアリングする。マイクもついているのでハンズフリーで電話もできる。便利すぎる。


 これで自宅のPC周辺の利用環境すべて無線になった。PC本体もwi-fi、マウスも無線、プリンタも無線、イヤホンも無線。


 27年前、卒論作成用に初めて購入したマックPCからは想像できない進化ぶりである。しかも価格も当時の多分半分くらいだろうと思う。


 OA機器は普段触っていないとあっという間に取り残される。一旦取り残されると挽回は厳しい。マラソンと同じである。PCは興味あるなし、乗り気がするしないに関わらず令和時代を生きる人間の宿命でもある。


 ちなみに最近一回挫折したプログラミング(python)の勉強をしぶとく再開している。亀の歩みのような進捗である。できれば封印したかったが仕方がない。

電子図書館で日本史マンガを読む

 

 会社近くの図書館で電子図書館が開通。未だ冊数は少ないが自宅PCやスマホで貸し借りができ、すぐその場で読むことができる。歴史漫画のラインナップが充実していたので登録した。


 何冊か借りて読んだ感想。絵のレベルは今風で向上しており綺麗ではあるのだが、その昔小学生の時、少年少女まんが日本の歴史(小学館)を読んだ時みたいな感動やワクワクがそこにはなかった。時間あれば繰り返し読みたいという気も正直あまり起らない。

 
 ワシはこの漫画と小5の時通っていた塾のおじいちゃん先生の歴史授業がとても面白くて、その相乗効果もあって日本史好きになった。
(その後、高校日本史で丸暗記する内容の膨大さにすぐに嫌いになったが。)


 本が悪いのでなく、単に知的好奇心や知識吸収というものが当時と比べて衰えているのだろうと思う。若い間が水の染み込むスポンジだとすれば、アラフィフの今は防水スプレーを塗布したスポンジだ。吸収どころか弾いとる。

 

 人間、実施するに適した時期や年齢があるというのは本当その通りかと痛感した。でもその当時はそんなことに全く気づかない、人から助言を受けても聞く耳を持てないのがまた人間というものなのだ。


 そして年を経てから、もっとああしてればよかった、もっと指導してくれればよかったのにと後悔し、周囲に愚痴を言う。時すでに遅し。全部当人が悪いのだ。残念ながら今日も日本中で同じ過ちは繰り返される。

徒然第十一段  神無月のころ

 

『10月ころに栗栖野を越えて山里に入ったところ、苔の細道を踏み分けた先にボロの庵がある。木の葉に埋もれる樋(とい)から滴る雫音しかしない。棚に菊や紅葉が置いてあるので誰か住んでいるのだろう。

 

 こんなとこでも生活できるのかと感心していたら、庭の大きな木にミカンがなっており、盗まれないように柵がしてあったのを見て興ざめした。この木がなかったらよかったのにと思った』という内容。

 

 有名どころキターーーーーー。国語の時間にでてくるやつのひとつ。自然に溶け込んだ風景の中に突如、人工的なものがあると確かに調和がとれていない違和感がある。さっきまで感心していたのが損した気分ということだ。

 

 現代でもこのようなのはある。綺麗な海岸の横に自販機があったり、パチンコ屋があったり。

 

 エジプトのピラミッドの向かいにはケンタッキー・フライド・チキンがあるらしい。そうしたいのはわかるけどー、チキン食いたいのはわかるけどー、それはないやろーというやつな。いつの時代も変わらん、人間というやつは。

 

 

 

休日にJR島本駅付近を散歩して思ったこと

 

 自分で自分のことについてべらべら話す輩が多い。他人が紹介しているとか、他人から喋ってくれと要請があってとか、ブログに書いとくから興味があれば、というならともかく、こっちが聞いてもいないのに、自分で自分のことばっかり話すタイプの人種である。聞かされる方ははっきり言ってほぼ興味がない。

 

 節操がないのか、自分のことを聞いてほしい”構ってちゃん”なのか、個人主義ここに極まれりなのか、自己発信アピールが大事という時代風潮なのかはわからない。

 

 自分のことについて自分で話すと矛盾が生じるというのは昔からよく知られた話だ。自己言及のパラドックスという。自己を含めて言及しようとすると発生する逆説のことだ。

 

 有名なのは『私は嘘しか言いません』といったような文。これが真であればそれは偽(嘘)になるし、これが偽であればその内容は真になる。古い時代の論理学でこれらの内容は議論の俎上にのってきた。なので、極力自身のことは自分で喋らない、自分で自分のことは考えないというのが、人類が経験的に獲得した自分を守る自己防御術であり、また処世術である。特に日本人は自己主張しないという風土の中で醸成され根付いた、自己との向き合い方であるような気がする。

 

 では、自分のことを考えなければ普段一体何を考えて生きるのか。むろん他人のことを考えるのである。楠木正成の滅私奉公よろしく、人は自分のために生きるのではなく他人のために生きるようプログラムされた動物である。この不文律を逸脱するとき、その人はこの世での役割を終えて寿命を迎えることになる。そんなことを散歩しながら考えた。

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島本駅前の公園にある楠木親子像

 

 

神と語って夢ならず 松本侑子著 (光文社)

 

 久しぶりに本を1冊きちんと読み通した。最近、集中力がなく本が長時間読めなかった。

 

 本書は文庫本では隠岐騒動というタイトルに改題になっている。明治維新前後の隠岐島において農民と松江藩との対立を描いたものである。なんと代官を島から追放し世界初の島民自治をある期間行った。新政府の公式文書からは混乱期のためという事で消されているようであるが、これはパリコミューンよりも数年早い。公式的にはパリコミューンが世界初とされている。

 

 王政復活のあと島の所有が藩か朝廷かで曖昧な時期があり、藩への日頃の不満も爆発しての追放事件となった。がその後、藩の反撃が始まり鎮圧された。非暴力で筋を通す農民に対して腹癒せの虐殺や掠奪があった。

 

 隠岐島島流しの場所でもあり古来から天皇との関係が深い。勤王の下、神の御代を夢見て決起したものの体よく新政府からも見放された。

 

 いつの時代もボリュームゾーンの弱者は利用され虐げられる。でも時代を変えるのもまた弱者から始まる。最近ワシは農民反乱に興味があったりする。鬱憤がたまっておるのだ。