もはやこれまで

隠遁を願うアラフィフ会社員。中学校の卒業文集で将来の夢は”何もしないひと”と書いた。あれから35年、夢も画力も変わっていない。

バタフライ効果


 蝶の羽ばたきによる僅かな気流の変化がまわりにまわって他の場所の気候を変える可能性から、一見関係のないようなことが意外なところに影響を及ぼす ことを言う。それは時空間を遥かに越えることもある。

 

 花粉症などがその例だ。花粉症がなぜ多いのか、元々の原因は何か?の問いに対して元をたどっていけば、それは昔日本が戦争をしたせいだ、という答えにワシだったら行きつく。

 

 日本が世界で孤立し、経済封鎖され石油が手に入らない。そのために太平洋戦争に突入。戦争による木材の不足、本土空襲による木造家屋の喪失によって、戦後に材木が全く足りなくなった。そのため急いで国は国策で造林を行った。しかし、より安価なマレーシア産などの海外製材木が大量輸入されるようになった。

 

 ちょうどいい感じに育ってきた木であったが、もはやあまり金にならないために放置された。地元で林業に従事する労働者も激減し、代わりに都市へ出て皆つまらないサラリーマンになった。手入れもされず放置されて怒った杉が花粉を巻き散らかした。そしてワシら日本人は鼻水が止まらず目が痒くなった。戦争をおっぱじめた人たちはまさか未来の同胞のくしゃみ鼻水が止まらなくなるなどと当時誰が予想できたであろう。

 

 将来を考えて行動せよとはよく言われるが、実は余りあてにならなかったりする。今を精一杯考えて生きましょう。

 

Live as if you were to die tomorrow. Learn as if you were to live forever.

明日死ぬかのように生きよ。 永遠に生きるかのように学べ。 

by マハトマ・ガンジー

福井に北陸新幹線

 

 北陸新幹線敦賀延伸が次年度オープンするに伴い、以前から物議を醸していた問題が熱くなってきた。それは敦賀以北の特急サンダーバード廃止に伴う関西・名古屋方面からの乗り換え発生問題である。

 

 これまでは京都や大阪、名古屋から福井・金沢まで直通1本で行けたのにも関わらず、敦賀駅で新幹線に乗り換えが必須+新幹線料金も1000円ほど値上がりする。かといって移動時間が短縮されるわけでもなく利用者としては二重に不便でしかない。一部反対運動が起きる中でJRは正式に廃止を決定した経緯がある。


 これによる波及は結構大きいように感じる。関西からの移動に関しては確実に足枷になる。旅行会社では減るであろう中京・関西方面からの旅行者にどう食い止めて対応するかを検討中であるらしいし、関西の大学はこれによって北陸方面からの入学者が減るのではと懸念する記事が上がっていた。

 

 一方、東京までアクセスが良くなるのは大きな利点で福井駅前は再開発が進んでいる。またこれまで通過駅であった敦賀駅がここぞとばかりにやる気を出している。以前敦賀駅に行ったときは酷かった。降りる人は誰もいない。駅前に人も開いている店も何もなかった。。。

 

 福井に住んでいた時はよくサンダーバードを利用した。福井駅もいつの間にか随分と綺麗になった。昔を知るものとしては少し寂しいものがある。次福井へ行くときは新幹線で行きたい。

 

 

 

破壊的イノベーション

 

 ずいぶん昔、カメラフィルムで有名なアメリKodak社との合弁会社に一時期海外出張していたことがある。2003年の頃である。

 

 世界でフィルムと言えばKodakブランドで最盛期には従業員6万人抱える超巨大企業であったが、彗星のように出現したデジタルカメラという巨人に駆逐されてあっという間に倒産した。あまりにもデジカメは圧倒的。勝負にならなかった。

 

 しかし天下をとったデジカメも短命で、彗星のように出現したスマートフォンという大巨人に駆逐されてあっという間に市場退出を余儀なくされた。あまりにもスマホは圧倒的。勝負にならなかった。

 

 現在会社の平均継続寿命は23年というデータがでていた。(人の寿命は延びているのに、、、。これだと20歳から65歳までの45年の労働期間、最低2社には勤務しないと駄目になる計算。雇用を守る以前にそんなに長く会社がもたないから)

 時々起こるであろう破壊的イノベーションの動向には常に注視すべきである。現代は時代そのものが破壊的イノベーションのようなもので以前の常識が今の非常識になっている。現代のゲームチェンジの根幹は我々人類が経験した3番目の情報IT革命である(農業革命→産業革命→情報IT革命→?)。

 

 革命とは、持たざる人間にとっては希望であるが、積上げたものや既得権益を持つ人間にとっては絶望になるのかもしれない。当然利害をめぐる双方による大衝突が発生する。好む好まざるに関わらず革命の真っただ中に居合わせている。

単元未満株を処分した


 株式会社が株式分割などを行って発生した端数の単元未満株がずーと証券会社の口座に残ったままになっていた。鬱陶しいので早く処分したかったが、海外株であったためHP上では操作できず、お客様センターに電話申込の必要があったため、面倒くさく放置状態であった。せめて株式分割はこんな後手続きが発生しないような分割の仕方をしてほしいものだ。

 

 ネット証券は一般個人の株式売買を促進した点ではよかったものの、店舗が無いために担当人材が豊富に当てがわれていない。つまり、お客様センターに電話してもなかなか繋がらず、現在20分待ちですのでこのままお待ちくださいなどと平気で言ってくるのだ。

 

 今まで5回くらい、空いてそうな日や時間を変えてトライしたが毎回こんな感じであった。ひどいときには大変混雑しております、30分お待ちくださいというのもあった。電話をかけたままでそのまま20-30分も待つことができる人は相当時間的余裕がある暇人である。これが億劫で放置にしていたのだ。金額的にも数百円であるしまあよいかと。

 

 ただいつまでも保有画面に表示されるために、意を決して受付開始時間に合わせて同時にコールしたところ、意外や意外、1分ほどで繋がった。手続きは本人確認の上、処理お願いします、であっさり終わった。翌日口座のHPを確認すると単元未満株は無くなっていたので処分されたのだろう。

 

 教訓:お客様窓口への電話は受付開始と同時に行うに限る。

西田哲学は秘伝の鰻タレなのか


 実家とーちゃんから昔に揃えた西田幾多郎書籍を古紙回収でなく有効かつ有益な方法で処分したいとの申し出があり、オークション出品することにした。

 

 書籍の資料的、資産的価値の高低はさて置き、現在の資本主義経済においては需要の多さと人気のみでバリューが決まるシステムであるために、値が付くのか引き取り手があるかはわからない。調べた感じではさほど希少性もなさそうなので値が付いてもコーヒー代程度であろうが、値段よりも知の結集が他の誰かに継がれて活用されるというのが望ましい、ということらしい。

 

 さて、西田哲学は難解なことで知られるがこの機会に少し調べてみた。西田哲学の概念を示すワードに絶対矛盾的自己同一という用語がある。後期西田哲学の根本思想であるという。意味不明であるが、解説をいくつか見る限りの浅い理解では、相反する矛盾した対立物がそのまま同一なものとして存在し得るということだろうか。これでも何言ってるのかわからんが。

 

 Youtubeで『生物と無生物のあいだ』の著者・福岡伸一先生が、西田哲学に関するコメントを述べていた。福岡先生は生命における維持バランサーとしてミクロ領域における動的平衡という考え方を導入し、分子生物学者の立場から生物の根源解明を探求されている。

 

 この考え方が絶対矛盾的自己同一と類似していると西田哲学の継承者である池田善昭先生より指摘をされたことがきっかけであるらしい。著書は一般書としてベストセラーにもなったので読んだ人も多いと思う。ワシも昔に読んで新鮮な感覚を得た。

 

 生物は常に細胞レベルで日々新しく置き換わり、数年で古いものを代替していく。数年前に自身を形成していた細胞は現在すでに無く、まったく新しい細胞に入れ変わっている。けれども不思議なことにその人自体は、個体としては別人ではなく同一人物で不変と見なされるのだ。

 

 『動的平衡』のように古いものを捨て新しいものを導入しつつ均衡をとることで個を維持するのと似たような着想や思想は実は古今東西にある。妻から指摘され成る程と思った『テセウスの船』という考え方もそうだろうし、鴨長明方丈記』冒頭部、ゆく川の流れは絶えずして、、の精神にも通じるところがあるのだろう。皇統の万世一系システムにも重なりが見られる。肉体という器を入れ替えつつ体制そのものを維持するのである。

 

 時代や地域、専門性を異にする人たちが、生や命、人間といった対象物を標的に多角的に俯瞰、深堀して到達する一つの姿が表現形式の相違はあれど多くの類似部や共通項を内包している。その点に於いて人間脳の思考限界を突き付けられるようで興味深く感じる。その思考している脳こそが日々新しく細胞が置き換わっている物体ではないのか、という自己矛盾。

 

 この雑記を書きながら、江戸時代から続く鰻屋のタレも同じではないかしらと思ってしまった。秘伝のタレは蒲焼に付けて減った分を新たに継ぎ足し補充しながら、『鰻のタレ』という形態を維持していく。江戸時代から代々引き継がれたと言っても、現在のものは新たに足されたものが大部分で当時のタレ成分はほぼ残存していないであろう。

 

 とすれば絶対矛盾的自己同一の根底思想は日常我々が食している鰻のタレと変わらないのかもしれない。一見入り組んだように見える宇宙の哲学や摂理というのは、案外自然則という秩序のうえに成立し単純化し得るものではないか。やはり神はサイコロを振らないのかも。

ノートPCのメモリを増設してみた

 

 いつも使っているPCが少し重い。2015年に購入したLIFEBOOK AH45でもう丸8年がたとうとしている。普段はネット、たまにエクセルしか使わないため大して不具合はないが、ここ最近ファイルの立ち上がりが遅いことが多少のストレスではあった。

 

 妻PC(なんとwindows7)も先日ネット不通でファイルコピーもできない故障が発生したため、交換ついでにワシのもそろそろ変え時かと考えていた。

 

 妻情報によるとメモリーは最低8GB、ストレージはSSDがよいとのこと。そういえば今のLIFEBOOK AH45はデフォルトメモリーが4GBで、MAX16GBまでは増設可能だ。

 

 増設すれば多少ましになるかも、ということでトライすることにした。アマゾンでCPUに対応する増設メモリを見ると16GB用が2400円ほどで購入できそう。PCに大して詳しくはないが、作業も裏面蓋を開けておそらくボードに差し込むだけだから何とかなるだろう。

 

 実際にやってみると拍子抜けするほど簡単だった。問題なくPC側もメモリーを認識した。その結果、確かにファイルを開く時間が短くなっている。PC起動時の立ち上がり時間も減っている。ということでワシのPC購入計画は少し延長になってしまった。

 

 

 

摂津峡へ行く

 

 三連休初日に高槻にある摂津峡へ行ってきた。摂津峡は将棋のタイトル戦の会場で有名な山水館がある。JR高槻駅からバスで20分程度で行ける自然溢れる景勝地である。

 

 張り切って朝6時くらいに出発した。誰もいないと思っていたが高槻からのバスはそれなりに人が乗っていた。おそらく摂津峡の横に大学があるために多分学生なのかもしれない。

 

 上の口バス停で下車、地図を見ながら渓谷入口を目指して進んだのだがなんか勝手がおかしい。どんどんマップとは異なる感じになってきた。まずい、早くも道に迷った。

 

 なんとバス停の位置が移動しており、市が出している散策ハイキングマップとは異なっていたのだった。やられた。幸先が良くない。

 

 人っ子ひとりいないなか、気を取り直してマップを見ながら先へ進む。すぐに芥川の渓谷の中に入った。高槻にもこんな場所があるのだと驚く。川では蛍が飛び、放流のアユ・マスがとれるらしく、夏には賑わいの地であるらしい。

 

 川沿いの道を進む。渓谷の岩がなかなかの迫力で亀岡の保津峡のイメージである。各所案内板やトイレも完備されており、スニーカーでも散策できる。

 

 途中のトイレに入ったが、男子トイレはドア完全オープンで外から丸見え。女子トイレは妻曰く、個室のカギが閉まらず、かつトイレットペーパーを引っ張ると一緒にカタツムリが出てきたらしい。このあたりも自然溢れる感じである。

 

 軽い事件はあったものの1時間ほどで公園広場に到着した。その間、誰にも出会わなかった。

 

 帰りは高槻駅まで歩くことにした。1時間ほどで繁華街まで出られる。先ほどの溢れる自然とは対照的である。