もはやこれまで

隠遁を願うアラフィフ会社員。中学校の卒業文集で将来の夢は”何もしないひと”と書いた。あれから35年、夢も画力も変わっていない。

脱ハンコ

 日本はハンコ文化である。記憶が正しければ中国もハンコ文化であり大陸から伝わって来たものだ。ハンコにまつわる思い出をいくつか。

 

 その昔、高校受験の願書の押印にシャチハタを使ったため担任が慌てて連絡して来た。高校側にシャチハタでもオッケーという確認をとってもらい事なきを得た。その高校には落ちたけど印鑑のせいでなくオツムが足りなかったせいだと考えている。

 

 ワシが新入社員だった頃、書類の押印が歪んでいると上司に呼び出された。見ると歪んではいるがそこまで気にするレベルではない。このおっさんは神経質かと思った。誠意を込めて判を押せと言われた。意味わからんと思った。

 

 ワシが社会人3年目くらいの頃、開発品のラインテスト書類の押印を上司にもらう行為をスタンプラリーと言っていた。係長、課長代理、課長、部長代理、部長、品質課長、現場製造課長、工場長に説明し、全ての印鑑をそろえてゴールである。コヤツらは会議で忙しくいつも席に居ないので中々捕まらない(当時は一人一台の会社携帯はなかったのだ)。そのうちハンコ貰うのにいつまで時間かかってんだと係長に文句を言われる。ワシのせいでは無い。

 

 こんなどうでもいいくだらん事で時間を浪費していた訳である。慣習の呪縛とは恐ろしいものだ。大体これまでの慣習から脱せない奴らに革新的な製品など作れる筈がないでは無いか。負の遺産は捨てるべきだ。文化として趣味や伝統工芸の形で残せばよいのだ。どう思われるでしょうか?

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判子