もはやこれまで

隠遁を願うアラフィフ会社員。中学校の卒業文集で将来の夢は”何もしないひと”と書いた。あれから35年、夢も画力も変わっていない。

月へ行きたいのに地上を歩く人たち


 間違った方向へ頑張り無駄な努力をする人の例として、なかなか示唆に富む話を思い出す。昔どっかで(ラジオかな?)脳科学者の方が話していた内容だ。

 

 地球から月までの距離は38万kmある。もし月へ行くことが目標であれば、やるべきことはロケットに乗り込む手筈を付けることである。乗り込むためには宇宙飛行士に応募し選抜される必要があるかもしれない。であるならば宇宙飛行士になるにはどうすればよいのか。例えばNASAJAXAに選抜要件を確認すべきである。要件が明確になればそれを満たすために頑張る。はたまた自力でロケットを設計開発するというのも一案かもしれない。こういう行為を努力というし、論理的な思考回路であると信じたい。

 

 ところが、月へ行きたいのに何を思ったか地上を38万kmひたすらに歩き始める人がいるという。38万kmは地球約10周分の距離に相当するが、その距離の踏破を目指して達成感を味わいたい人がいる。

 

 地上をいくら歩いたところで永久に月到着はあり得ない。そもそも向かう方向が最初からズレている。ところが、歩く道中で頑張って克服した困難やその土地での人とのふれ合い、優しさなど代えがたい貴重な非日常を体験できた、確かに月到着こそできなかったがチャレンジして良かったという美談でなぜか終わる。有意義であったし無駄ではなかったと独り悦に入る。そしてまた無責任な周囲がよかったねー、きっと後の人生の糧となるわーなどと囃し立てたりする。

 

 いやいや、おかしくないか?目標達成というミッションは?全く100%無駄な努力であり意味がわからん。ミッションをすり替えてより妥協した頓珍漢な似ても似つかぬ目標に向けて勝手に邁進しているだけではないのか。こういうのを自己満足という。

 

 でも他人のことを笑えない。普段我々は気を許すと知らず知らずのうちにこれと似たようなことをやってしまうのかもしれない。無駄な努力を回避するため、常にベクトル合わせ、何のためにやっているのか、到達地点の確認が必要だ。

 

 正しい方向にめがけて正しい努力をしないと駄目だよー、という当たり前のお話。