もはやこれまで

隠遁を願うアラフィフ会社員。中学校の卒業文集で将来の夢は”何もしないひと”と書いた。あれから35年、夢も画力も変わっていない。

仮想現実の社会

 

 映画マトリックス3部作をアマゾンプライムで一気に見た。最新作マトリックス レザレクションズが公開されるのを記念し、アマゾンでこれまでの3作を無料公開していたのだ。

 

 マトリックスは1999年のSF映画である。当時はあまり仮想現実の意味が分からなかったが、今改めて見るとなかなか示唆に富む映画であると思う。今我々が生きている社会は実はコンピュータ上でプログラムされた仮想空間であり、AIが操作しているというものである。AIの手のひらの上で何も知らずに踊っているのが人間であるということだ。非常に面白い指摘である。

 

 これを見終わったとき3つの話を思い出した。一つは西遊記孫悟空の話だ。孫悟空がいくら觔斗雲(きんとうん)で飛び回っても釈迦の手のひらから外に出ることができなかったという内容。釈迦が我々を支配する神のようなもので孫悟空がその中で何も知らずに生活している人間たちに相当するというわけである。

 

 二つ目はこれまでにも書いた『胡蝶の夢』という思想である。蝶になった夢を見て目が覚めた時に、自分が蝶になる夢をみていたのか、それとも今は蝶が人間になっている夢をみている続きなのか、現実はどちらなのかよくわからない、という内容。

 

 三つめは『水槽の脳』という考え方である。1982年にアメリカの哲学者ヒラリーパトナムによって提唱された。今ある我々の世界は水槽に浮かんでいる脳が見ている夢であるというもの。今ここにいる、という感覚は五感によって体感、認識できるが、これはすべて脳に与えられる微弱な電気信号により脳自身が判断していることだ。つまり脳だけを取り出して電解液の水槽に浮かべ、電極で他の第三者が電気刺激を与えることで同じような感覚が生じるのではということなのだろう。

 

 第三者って誰?それを昔から、神とか釈迦とか最近ではAIとかと呼んできた。この辺りって考え出して深みにはまれば這い上がれなくなりそうであるが、興味深い題材ではある。結局のところデカルトの『我思う、故に我あり』に通じるものがある。そう考えると昔に言語化したデカルトってすごいね。