もはやこれまで

隠遁を願うアラフィフ会社員。中学校の卒業文集で将来の夢は”何もしないひと”と書いた。あれから35年、夢も画力も変わっていない。

奴隷の鎖自慢

 会社員は現代版の奴隷制度であると思うようになってきた。もちろん古代ローマ時代の奴隷制よりかは各段に待遇は改善されているし、多くの場合命のやり取りもない。かろうじて基本的人権は守られているのだろう。(最近はパワハラなどそうでないケースもままあるけど)けれども生きるためにはなんらかの組織に所属せざるを得ず、その組織内には強者/弱者という力の序列が存在し、自らの意志の有無に関わらずにその指揮命令で動かざるを得ないという点ではまあ本質的には同じである。

 

 その対価として賃金が払われるわけではあるが、まともなギブアンドテイクにはなっておらず、安価で過剰な労働力を要求する資本家側が有利な契約になっている。奴隷は生かさぬよう殺さぬよう、なのである。

 

 奴隷の鎖自慢という言葉がある。出典は明らかではないようだ。奴隷である期間が長く続くとそいつらは奴隷の証である足枷の鎖自慢を始めるというのである。自分の鎖は相手よりも立派であるとか、よく光っているとか。よく仕込んだものである。日本の民主主義教育による洗脳の勝利である。しかし結局のところ奴隷は奴隷やろがーという話。

 

 現代日本の会社員をよく風刺している言葉だと思う。自分は正社員だとか、公務員だとか、○○会社に勤めているとか、そういう類のやつだ。人を雇用する資本家目線でいえばちゃんちゃらおかしい議論である。あなたが○○会社所属であろうが何であろうが独力では何もできない交換可能ないち奴隷にしか過ぎないのだ。そんな意味でいうと鎖自慢は末期症状だともいえる。

 

 みんな同じではなくひとりひとりが創業者、個の能力を開花し生活できる世を望むばかりだ。

 

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鎖自慢、ワシのはお前のより重くて頑丈だぜ!