もはやこれまで

隠遁を願うアラフィフ会社員。中学校の卒業文集で将来の夢は”何もしないひと”と書いた。あれから35年、夢も画力も変わっていない。

文章力は数学力

 Youtubeロザンの楽屋話しを見ている。文章を書くのに必要なものは国語力よりも数学力であるという議論をしていた。

 

 まとまった量の文章では読み手に理解を促すため、また共感を与えるために起承転結を考えたり、このA部分を先に書いてその後にB部分を書くことでC部分を強調しようなどと言う全体の構想、枠組みの構築が先である。この作業を行う能力は国語力と呼ぶよりも確かに数学の考え方に近い。高校までの数学の問題はほとんどこの思考プロセスをとる。

 

 ある数学の問題を与えられたとき、徐に一行目から書き始めるのはやはり下手くそで、全体を見てどのように、どんな定理や手法を使えば求める解に到達できそうかという方針をあらかた決めてから着手するほうが上手くいく場合が多い。

 

 そして枠組みが大枠決まった後に文章一文一文の表現方法や言い回し、修飾などを尖らせる国語力が必要となる。従って国語力だけあっても良い文章は書けないという主張だ。ものすごくたくさん本を読む読書家で国語が得意な人であっても文章や本を自ら書き上げることができない人は国語力はあるけれども数学的な思考ができないということらしい。

 

 非常にいい事を言う、この考えは割と共感できる。そもそも人間を理系や文系に分けるのは日本だけであって大抵の国では両方必要なのだ。当たり前ではないか。

 

 そういえば最近、作家・太宰治の高校時代の成績表が見つかり公開されたという記事があった。国語よりも数学や体育が群を抜いていたという。人間失格を書いた太宰のイメージが変わる事実だ。

 

 ワシも数学パズルで暇つぶしをしながら堕落論でも書こうかしら。