もはやこれまで

隠遁を願うアラフィフ会社員。中学校の卒業文集で将来の夢は”何もしないひと”と書いた。あれから35年、夢も画力も変わっていない。

得意なことを探す

 

 なんとか会社組織から脱することを考えるうえで、改めて自分の得意なものを模索し棚卸している。模索している時点でいかがなものかとは思うが、自分の得手なものや他人より良くできる取柄を挙げよといってもよくわからんという人が多そうだ。かくいうワシもそうで50年生きてきて未だに何が秀でているのかがわからない。ちなみに人より劣っている能力は列挙しきれないほど一杯ある。

 

 これはその通りでおそらく大半の普通人には何もない、というのがおそらく正しいと思っている。その昔数学者の秋山仁さんが人より秀でることに関してどこかで述べていた。詳細は忘れたが、確かこんな感じの話。

 

 あなたの得意なもの、他人には負けない能力や特技は何か、という問いかけに口ごもる人は多い。実際、混雑している駅前にでも行って無作為に幾人かを選び出し、いろいろと試しにやらせてみればいい。例えば、バイオリンを弾いてみる、英語で外国人とディベートしてみる、柔道をやってみる、100mを走ってみる、株式トレードで利益を出してみる、物理学の問題を解いてみる、将棋を指してみる、絵や彫刻を作ってみる、街頭演説をやってみる、飛び込み営業をやってみる、フランス料理を作ってみる、個人で会社を経営してみる、、、。どれもこれも、この人ほんとに大した事ないなー、まともに何一つできない人ばっかり。という結果になるに違いない。でもこれが現実であり普通である。

 

 つまり普通人には得意で秀でるものなど、そもそもないと思った方がいい。もしあるとすれば、他人より何倍も何年も時間をかけて苦しみながら鍛錬する必要があり、それでやっと他人よりも多少上手くできるという程度である。

 

 人より何倍も何年も時間をかけて鍛錬しないくせに、あわよくば何かキラリと光るものないかと探し続けて年齢ばかり重ね、本当に何もできない人間が量産されていく。ワシも得意な土俵探しという放浪に出掛けたまま、何も見つからずに終えてしまいそうである。この世は数々の救われないことに満ちている。

気付く、ひらめくに関する考察

 頭の老化防止のために朝起床してから時間がある時はyoutubeで挙がっている易しめの数学問題(といっても大学入試問題だけど)を1題解いている。


 途中で飽きて中断があったりしながらもなんだかんだと珍しく結構続いている。例えば英語を続けるのは正直若干の苦が伴う(多分、会社でも使う場面が多いからかもしれない)が、こちらはすんなりと取り組めるため、できる/できないは別として割と適正があるのかもしれない。


 書き留めたノートも冊数が増えすぎて大方処分したが多分累計で20冊は優に超えている。

 

 先日、正五角形の対角線長さを計算する問題で少し思うことがあった。懐かしい、学生の頃やったなーと感じながら算出はできた。対角線長を未知数xとおいて三角形の相似比を利用し、2次方程式に持ち込む手順である。


 これはこれで正答だったのだが、そのあとの問題でなぜか解説としてトレミーの定理を取り上げていた。トレミー定理は別名プトレマイオス定理ともいう。円に内接する四角形に関し、対角線の積は対辺の積和に等しいというものだ。


 この定理を取り上げた後、再び正五角形の対角線長さを計算する問いが設定されていた。以前やった知識を定着させるための配慮なのかなー、最近youtube講義はよくできていて、知識伝達の目的に限れば学校が要らなくなるなー
と安易に考えていた。ところがその後、からくりが理解できた。


 一見、関連性がないと思っていたが、正五角形は円に内接することからよく見るとトレミー定理が利用できる。これを使えばほぼ瞬間的に対角線長さが計算できるというものだった。これはこれでよい。些細なテクニックとして受験生など必要な人はありがたく学べばよい。


 ここで凄く気になったのは、なぜこのこと(トレミー定理の利用)に気付けなかったのかというところにある。

 

 今回の事例に限らず日常生活でもこのような場面は多い。後で言われるとなるほど確かにと納得かつ理解でき、事前に言われた知識も持っていたにも関わらず、その場では気づけない、思いつかない、ひらめかないという現象である。気付く人と気づけない人の分水嶺となるその要因は一体何であるのか。


 気付かない状態と気付く状態の乖離ギャップを埋めるために、他者より多く時間をかけて訓練せよという方法論が世間ではよくとられている。一見万人受けする言葉であるが、ワシは好きになれない。

 

 なるほど確かにそうすれば多くの経験値を積むことができるし場数も増えることから、より気づく状態に近づけるであろう。数学問題の例で言えば、50題よりも100題、100題よりも200題解く練習をした人が、気づく状態に近くなるのは確かである。


 けれども200題訓練した人が新たな201題目を確実に解けるかといえばこれは多少疑問である。案外50題しか訓練していない人があっさりと解いてしまい、しっかり200題訓練した人が解けないという場面も世間ではよくある。


 感情論でそんなのズルいじゃないかーとか言ってもこれはもう仕方がないのである。大半の努力(と本人が勝手に思っているもの)が無駄になるのは人間社会では昔からよくあることで特段珍しくはない。


 ここでいう訓練というのは乖離ギャップを限りなくゼロに近づける作業であり、個人の特性や素質を尖らせる作業でもある。残酷だけど元々の特性が良くなければ尖らせても限界があるということだ。磨いても光らない玉があるということ。


 従ってワシなりの分水嶺となる要因とは、その人の特性+訓練に依存するということ。訓練は後天的かつ人為的に制御できるが、もともとの特性は先天的で制御不可である。


 以上のことから思うに、人生、好きで大して何もしなくても得意な土俵以外の場所で勝負するのは損失であるということだ。苦手なところは得意な人にやってもらえばよい。

 

 そうであれば、なぜ今回ワシはトレミー定理の利用に気付けなかったのか?それは生来の数学的才能が大したことはなく、かつ他者を凌駕する訓練努力もしていないから、、、ということになる。この結論に関してだけは激しく納得できるものである。

きょうと魅力再発見旅プロジェクト 大原 第二弾

 府民割りを活用して第二弾へ行ってきた。今回は大原つながりで大原野の温泉へ行くことになった。


 再発見が10/10まで延期されたこともあり、スペシャル安価になっていたので目聡く利用の運びとなった。天然温泉+朝夕食バイキング+ホテル宿泊で4750円/人の低予算である。多分通常価格はこの3倍ほどである。


 久しぶりの旅行であったのでなにかとトラブル続きの旅となった。やはり定期的に行かないと駄目である。

 

 比較的近場であったため、交通手段はママチャリでいくことにした(しかし、こんな奴いるんか)。出発早々事件が発生、電車通過待ち後の踏切で対向チャリと接触しそうになり、危うく避けたところ一段低くなっている線路側にはまりそうになり、自分のチャリンコを倒してしまった。その際にテールの反射板を破損した。
(でも後で修理する際、夜間自動点灯の仕組みがよくわかり勉強になったのが幸い。


 普段から太陽電池で発電し、エネルギーをボタン型ニッケル水素電池に充電、CdSで明るさを、振動センサで自転車に乗っているかを検知して夜間にLEDを光らすのだ。中学生の電子工作レベルであるが、なかなかハイテクではないか。)

 

教訓1:電車待ち後の踏切を横断する際、線路側でなく車道内側を通るべし (by ワシ)

 

 到着した宿泊場所は『洛西の小畑のせせらぎを感じながらゆったりとしたひとときを、、』という感じのキャッチフレーズであったが、
階下が宴会ホールになっており、せせらぎの代わりに始終おっさんのカラオケ音が聞こえてくるナイスな環境であった。


 早速温泉へ赴いたが、普段の外出時の習慣でマスクを外すのを忘れており、素っ裸でマスク着用のまま頭に手ぬぐいをのせて湯舟に浸かっていた。迂闊であった。


 なぜかみんなワシのことを見てくるなーと思って不思議だったのだが、確かに怪しさ満点といってもよい。前を隠さずになぜか口だけ隠しているのである。違和感甚だしいとはこのことである。しかも顔を洗うまでマスク着用していることに気付かなかった。


教訓2:習慣とは恐ろしいものである。無意識のうちに行動し、自らの行動に疑いを持たなくしてしまう。(by ワシ)

 

 その後部屋へ戻ろうとする際に履いてきたスリッパがなくなっていることに気付いた。このホテル館内では浴場へ入館する際、自分のスリッパに番号目印のついたクリップをスリッパに挟んで他人との混同を避けるシステムになっている。


 スリッパ置き場は無人で説明もなかったので一見どうしていいのか戸惑う感じであったが、何となく状況から判断することはできる。

 

 ワシらが浴場入館する際に3人組のばーちゃんが、これどうしたらええのん、とか言いながらワチャワチャしていたことが気掛かりであった。その直後の事件であったため、おそらく犯人はあのおばば3人組が関与していると睨んでいる。ちなみにその後、妻も同じ目にありスリッパが奪われた。一体どうなっているのか。


教訓3:集団行動するおばば達には十分過ぎるほど注意せよ。(by ワシ&妻)

 

 その後、夕食→朝食は滞りなく進んでいった。朝7:30にチェックアウトし帰路につく際にまた事件が起きた。妻自転車の後輪空気が抜けていたのである。


 この自転車は相当年季が入っているためにすぐに空気が抜けることは知っていたがまさか半日で全部抜けるとは思わなかった。仕方なく自転車を押しながら歩き、途中で実家に立ち寄り空気注入したのちに帰ることにした。


教訓4:旅行で使う自転車は空気が抜けないものを選定せよ (by ワシ&妻)

 

 歩いて帰路の途中、出身小学校の横を通過した。大規模工事が行われている。正門には『閉校に伴う工事』と看板記載があった。閉校?? 

 

 調べてみると少子化のため生徒数が少なく、近隣小学校と統合するため2022年3月末でもって閉校とのこと。創立以来41年の歴史を閉じた。現状1学年が1クラスで統合により複数クラスで学校行事ができることが嬉しいと統合先の校長の弁があった。


 考えられない。ワシが通っていたころは府内最大の全校生徒1700名強を誇るマンモス小学校といわれていた。創立当時から通っていた身としてはこのような形で消滅してしまうのは寂しい限りであるがこれも時代の流れである。


 ちなみに跡地には隣接している中学と一緒になり小中一貫の学校を建設中であるらしい。ということは母校の中学も近く閉校になるのか?
宿泊場所近くの商業施設&百貨店にも立ち寄ったが年齢層が高く(若者がいない!)、かつての活気は感じられなかった。


 ニュータウン人口推移のデータをみると右肩下がりで総人口が減り、特に15歳未満数が減り、一方で65歳以上が爆増している。少子化がすすみ、高齢化がすすみ、立地場所の公共交通便の悪さも相まって、若い世帯が根付かずに街自体が夕暮れのように没していく。現代日本の縮図を見た気分だ。

 

教訓5:諸行無常、盛者必衰。栄えて絶頂にいるものも必ず衰える時がくる(by 平家物語 冒頭部)


 この旅を通してこんな句がふと脳裏をかすめた。

 

夏草や兵ども(つわものども)が夢の跡  (by 松尾芭蕉)

 

 

アニメ平家物語をみた、まさに諸行無常だ

 

 アマゾンプライムにアニメ平家物語があがっていたので、夏季休暇から見始めて先ほど見終わった。30分×11話の構成である。この物語は作者不明でのちに琵琶法師が後に語り継ぐものである。アニメではびわという名の子供を主人公に話が進む。

 

 大筋内容は概ね知っていた。国語の古典でも日本史でも触れるところであるし、源平合戦は話として面白いので。ただこれまでの知識は後半の勝利者である源氏視点での話が多かったように思う。

 

 不憫なのは重盛の子で清盛の孫にあたる平維盛、資盛、清経ら兄弟である。彼らは武士と言ってもほぼ貴族化しているため笛や舞は上手でも武芸は絶望的に下手で、維盛にいたっては性格が優しく穏やかで争い事が嫌いという武人としては致命的な面を持つ。

 

 盛り返した源氏と武力衝突する際には一門の棟梁長男と言う理由で維盛が大将(父重盛は早死)として出陣するが、富士川では敵前逃亡し、倶利伽羅峠では大惨敗した。

 

 都落ちの際、居た堪れない維盛は一門をこそっと抜けて出家し那智勝浦の海に身を投げた。同情を禁じ得ない。これほどミスマッチな人選はない。私の専門分野はバイオリンですが、勤務先は建築会社の現場監督です、というくらいのズレっぷりである。

 

 他の兄弟も似たような感じで横笛の名手、清経は落ちのびる途中で元家人から裏切られ、一門の未来を憂い入水した。

 

 資盛は最後まで奮闘するも安徳帝を守れず壇ノ浦で入水した。たしかに相手も悪かった。日本の歴史史上でいちにを争う戦の天才源義経であった。もっとも義経も戦は有能だが、他の能力が欠落しており今で言う周りの空気読めない人なので、うまく利用された挙句、利用価値が無くなった所で最後は兄頼朝に殺された。

 

 安徳帝とともに入水した母の徳子は敵に救助された後、京都大原の寂光院で隠棲、尼となり余生をおくる。後白河院が訪問した折、そっと粗茶と漬物を差し出すシーンがある。のちに名産となる柴漬けであった。

 

 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり

ベンベン♪

 

日本の国土が減っている

 仕事がダルいので、ふと日本の海岸線について考えていた。

 

 現在、日本の海岸線は波の侵食により、徐々になくなっているらしい。その面積は年160 haで、新たな堆積よりも侵食の方が大きいことがわかっている。何もしないと近い将来、海岸砂浜はなくなってしまうみたい。

 

 こんな話、ずっと以前からもあったのかと思って仕事中に熱心に調べてみたら、侵食原因は防波堤やダム建設による土砂の供給量減少とのことであった。

 

 確かにダムができる前は河川が土砂を下流まで運び、海岸部を拡張していた。拡張と侵食が平衡していたので国土面積は一定に維持されていたわけである。しかし、その肝心の土砂が供給されないので、砂浜は削られる一方になってしまった。

 

 では河川の運ぶ土砂がなくなったかといえばそうではない。それが海まで届かなくなっただけで、ダム底や河底に溜まったりする。これはこれで問題になっている。

 

 河川では土砂のため次第に水深が浅くなり、洪水が起こるので堤防を作る。さらに土砂溜まる→浅くなる→堤防もっと高くする、を繰り返すとそのうち川がはるか頭上を流れることになる。天井川という。

 

 ほんとは海へ行くはずだったものが途中で止まり、付け焼刃的な対応をするからいろんなところに不具合が発生する。

 

 こんなことを調べていたら、ほんとはこの時間で作成するはずだった会議資料が途中で止まり、溜まっていくことに気づく。土砂と同じである。不具合発生は承知のうえでの付け焼刃的な資料になりそうだ。

コレステロール通院

 

 LDLcを下げる薬を飲んでひと月経ったので血液検査に通院した。以前より身体がだるく、ごくごく軽い筋肉痛が常時起こっている。

 

 筋肉痛の副作用は事前に言われていた。程度差はあれ結構多くの人に発生しているようである。薬の悪い面である。我慢できないようであれば薬を変えるか筋肉痛を抑える薬を追加する様。まずはベネフィットの方を優先する。こうして薬が倍々に増えていく。

 

 老人で毎日茶碗1杯分の薬を飲むひとがいるのも頷ける話。日本の医療は縦割りなので身体全体を見て薬を出す事をしない。

 

 というわけで以前にも増してだるそうな感じで毎日生活している。

夏期休暇が終わる

 

 1週間の休みが終わった。いろいろ予定立てていたがあまりできないいつも通りの休みとなった。強制力が働かないと何もしないのは昔からの習性であるのに加えて、なにもしない人というのが人生の目指す姿であったので仕方がない。ほんとに何もせずに休みが終わってしまった。

 

 コロナが猛威を奮っているし、外は殺人的な暑さだし、妻とも休みが合わなかった。近所のスーパー、図書館、いつもの病院へ行くくらいが日課で、外出の度に水浴びをして過ごした。唯一の大仕事はもう10年くらい利用していない、りそな銀行口座を解約したくらいである。

 

 図書館で借りた雑誌、日経ビジネスは『くすぶるな50代』という特集を組んでいた。50代は一部を除き、若手から働かないおじさんと呼ばれており、また働いていないように見え影が薄いため、別名妖精さんとも言うらしい。ほぼワシはこれら条件に合致する。

 

 明日から多くの妖精たちが集う住処(ワシの所属する部署)へ出勤する。